元Fight野郎

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【2019.08.02 Friday 】 author : スポンサードリンク | - | - | - |
葡萄

 9月28日(金) 今年も知人からニューピオーネが届いた。例年よりも大粒。夕食後においしくいただく。

【2012.09.29 Saturday 00:30】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
空六

 9月27日(木) ウダウダと今後の仕事の準備しながら缶ビールを飲んでいたら、シックスパック空けてもた。

【2012.09.28 Friday 03:37】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
苦悩

 9月25日(火) イベントを考案したものの、なかなか適した場所が見つからない。大阪市内に機材を持ち込んで、300〜500人収容できるハコはないものか…。それなりの会場費でというのが条件。設備次第ではエアギターライブなんかも追加しよう。
 アキバでのイベントを上回る評判を得るのが目標。

【2012.09.26 Wednesday 00:03】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
笑鬼

 9月24日(月) 新日プロ1・4東京ドームのチケット発売要項が発表された。
 
 2階スタンドも開放。といっても、どのあたりまでかは前売り次第だろうが…。
 
 伝え聞いたところによると、観客動員の目標は実数で4万人。「ブシロードで2万人集めるので、新日プロ側も頑張って2万人集めるように…」という話も。
 
 あと、別の筋から1月にリック・フレアーが来日するとの情報も。
 
 景気のいい話だが、最近の新日プロ人気が本物かどうかが問われるビッグショーとなりそう。
 
 ちなみに、来年の1月4日は水曜日 金曜日。

【2012.09.25 Tuesday 03:33】 author : 元Fight野郎 | - | comments(1) | trackbacks(0) |
柴桜

 9月23日(日) 新日プロ神戸大会へ。
 
 会場入りするや、まず探したのは観客席にいるはずの上井文彦氏の姿。
 
 とはいえ広い会場だけに、簡単には見つからないと思っていたが、意外にも入り口近くのスタンド席に座っておられたため、苦労することなく発見。そういえば事前に約束していなかったにもかかわらず、野球場でスタン・ハンセンとバッタリ顔を合わせたり、レッスルマニアの会場でKENTAと出くわしたりと、大会場での捜索は得意なのかもしれない。
 
 そして先日のトークショーでの取材に対するお礼を伝える。考えて見れば、“現役”の頃は試合が始まっても会場内を忙しく動き回っていた上井氏だけに、席に着いてゆっくり観戦するのなんて初めてではないだろうか? ピーナッツを頬張りながらリングを眺めている光景は、実に新鮮。
 
 本来なら柴田勝頼&桜庭和志の試合の感想をうかがいたいところだが、すでに某誌からオファーを受けているとあっては遠慮するしかない。
 
 さて、その柴田&桜庭の初戦。率直な感想は、「まぁ、こんなもんかな」。これをどのようにとらえるかは、見た者の感性に委ねられるが、あの2人(井上亘&高橋広夢)ではやはり役不足だった。
 
 結果、井上は正式な出番なし。高橋は特攻精神でぶつかっていたものの、いかんせん技術が伴っていなかった。それ以前に、柴田の強烈な張り手、蹴りでのけぞる姿が情けなくさえ見えた。
 
 面白かったのは、バックステージでの共同会見におけるTVアナウンサーとのやり取り。
 
 柴田の「新日本がこんなもんでいいのかな? っていうのはありますけど。“?”マークだらけですよ」に対し、「そのへん、もっと具体的に教えてください」と返したインタビュアー。柴田は「見たらわかるでしょ?」と投げかけるものの、インタビュアーは「どういうところですか?」。なんとかして具体的な部分を引き出そうとしたのかもしれないが、柴田が「わからないですか? ホントに?」と問いかけると、「ハイ」の答え。
 
 さらに柴田が「ダメでしょ、いまの新日本」と続けると、「何がどうダメか教えてもらえますか」。そして柴田に「本気で?」と突っ込まれると、「ハイ」。さすがにここまで来ると、柴田は呆れて「すごいなぁ…」。慌てて桜庭が止めに入った。
 
 今の新日ファン気質が顕著に表れているようだった。
 
 柴田の厳しい攻撃になすすべもなくやられた高橋。実力、技術の差はいかんともしがたかったが、あれほど実力差があるのだから、桜庭ももっといやらしく攻めてもらいたかった。それこそ道場でのスパーリングで、先輩が後輩をかわいがるような感じで、圧倒的な差を見せてもよかったのでは…。
 
 柴田は両国に乗り込んだ際、「ケンカ売りに来ました」と口にしたが、桜庭の本心はどうやら「技術の攻防がしたい」というところにあるよう。それは95年10・9東京ドームのオープニングにおけるタッグマッチで、自身が試合に臨んだ際に抱いていた思い。この微妙なズレが、タッグチームとしては絶妙にかみ合いそうな気もするのだが…。
 
 柴田の心には、あのころの新日プロの魂が今も息づいている。自分が古巣を離れてから、それを取り戻したかを確かめる闘いでもあったが、残念ながら感じられなかった。
 
 両国に乗り込んでから「プロレス・格闘技論争」(論争というほどには至ってなかったが…)が起こったものの、両者ともガチガチの格闘技スタイルではなかった。かといってプロレスでもなかった。
 
 野球に例えると、柴田からすれば「先発して9回完投を考えて投げるのでなく、打者1人との勝負。ストレートで勝負を挑んだ」。ところが相手は、フルスイングするのではなく、バットを当ててきた。しかし技術の差が大きすぎて、バットに当てることすらできず三振を喫してしまった。そんな感じの闘い。
 
 とはいえ、逆に新日プロという名の泥沼に絡め取られてしまった印象もぬぐえない。このまま続けていくと、新日プロに同化させられる危険性も。
 
 プロレスの技術体系があったわけではない。長い歩みの中で、ガチガチの格闘技に“魅せる要素”を加えていって、現在に至っている。だからこそプロレスは「格闘芸術」。とはいえ、芸術には超一流もあれば三流もある。未完成もあれば、未熟もある。
 
 もともと新日プロは「誰が見ても納得いく闘いを実践する場」だった。そのため、道場ではあらゆる格闘技のトレーニングを積んでいた。それが鬼軍曹の指導方針だった。
 
 「ストロングスタイル」「キング・オブ・スポーツ」を名乗るからには、少なくとも強くなくてはならない。強くなろうと、日々、努力しなければならない。強さにあこがれて、プロレスラーを目指したのではないのか?
 
 残念ながらその匂いは感じられなかった。それが「こんなもんでいいの?」という言葉となった。
 
 スタイルは時代とともに変わっていくものではあるが、根底に流れるものは変わってはならない。それを気付かせる存在になり得るか。
 
 ただ、ブッカーからすれば、推進するカラーとは異なるコマだけに、2人の扱いは厄介この上ないはず。
 
 バックステージで柴田は「どこまで発言していいのか…。いろいろ縛りもありみたいなんで」と口にしていた。柴田の発言が新日プロのレスラーにではなく、ブッカーに向けて発せられたものならば、面白い展開になっていくかも…。

【2012.09.24 Monday 23:20】 author : 元Fight野郎 | - | comments(2) | trackbacks(0) |
職人

 9月22日(土) WNC大阪大会へ。
 
 The Bodyguardが会場入りするところにバッタリ出くわす。「大阪ハリケーン2012」の試合中に負傷した左ヒザは重傷で、手術を終えて先週ようやく退院したところ。現在、リハビリ中で、「まだ、ここまでしかヒザが曲がりません。焦らず気長に復帰を目指します」とのこと。
 
 全試合終了後にはTAJIRIと雑談。そこで出たのがスペル・デルフィンの名前。「(沖縄プロレスをたたんで)これからどうするんですか?」と尋ねられたので、「和泉市議会議員の選挙に当選したので、そのまま議員になるでしょう」と答える。「じゃあ、もうプロレスはしないんですか?」との問いには、「たまに、スケジュールが合えばリングに上がるでしょうけど」と伝え、「もうプロレスじゃ儲からないって思ったんじゃないですか? 絞れるところからはもう絞り取ったでしょうし。基本的に自分の金で何かする人じゃないですから」というとTAJIRI選手は苦笑い。
 
 そのTAJIRI、この日はルチャドールモードでレイ・ミステリオ・ジュニアと対戦。自身はほとんどいいところなく敗れたが、逆にミステリオ・ジュニアの本領を存分に引き出した闘いだった。
 
 そいう意味で、TAJIRIは職人タイプのレスラー。しかも卓越した技量を兼ね備えている。だからこそWWEで長年、生き延びてこれたんだ、あらためて実感。

【2012.09.23 Sunday 03:25】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
談議

 9月16日(日) DDT大阪大会へ。
 
 早めに会場入りしてから、某編集プロデューサーとランチ会食。出版業界事情を収集しながら、こちらが協力できそうなことを伝えておく。その中で、かつて「週刊ファイト」に掲載されたミスター・ヒトの連載を出版できないかと尋ねてみる。
 
 権利関係や遺族の意向などをクリアすれば出版は問題ないが、どれほどの売り上げが見込めるかもひとつの課題。
 
 登場人物は橋本真也、馳浩、獣神サンダー・ライガー、キラー・カーン、川田利明、ケンドー・ナガサキ、アニマル浜口、マイティ井上、高田延彦、リッキー・フジ…とそうそうたるメンバー。とはいえ、それがどれほど購買意欲に結びつくか。
 
 ほかにも40年の歴史を積み重ねた新日プロに合わせたものなど、いくつかのアイデアを伝えておく。
 
 その後、会場に戻る。レスラー、関係者、報道陣などとの雑談のなかから、情報を探る。
 
 アントーニオ本多にはボリビアに関する話をうかがう。貴重な体験だった半面、大きくコンディションを崩したようで。片道30時間以上に長旅に加え、復路では機材トラブルで大幅にフライトが遅れ、シカゴで丸1日、足止めを食らったのだとか。そんな状況を経て、同じボリビア遠征組のヤスウラノと組んでKO−Dタッグ王座に挑戦。
 
 アントンvsドラゴンという、オールドファンには涙ものの顔合わせ。アントンはリバースインディアンデスロックを仕掛けるも、藤波のふくらはぎが太いので、なかなか足をねじ込むことができず。それでも何とか強引に持ち込んだ。
 
 卍固めも決めたアントンだが、それ以上に衝撃だったのは、ダスティ・ローデスばりのバイオニックエルボーを浴びた藤波が独特の受身を取ってダウンしたこと。ある意味、歴史的なシーン?
 
 結果、王者チームの防衛に終わったが、藤波はこの日もベルトを巻かず。KO−Dタッグ王座はこのままドラゴンに認められないままになってしまうのか…。
 
 前半で注目されたのが、藤原喜明vs男色ディーノのアイアンマンヘビーメタル選手権試合。
 
 自分のスタイルを崩さないで、しっかり男色殺法に溶け込んでいた藤原組長。考えて見れば、元祖オカマレスラーともいうべき、エル・グレコ&エル・セルヒオと堂々と渡り合っていたのだから、ディーノ程度ならお手のもの。
 
 ただ、ディーノはひそかに大それたことを狙っていたとか。さすがに組長はそれにはのらなかったようで…。
 
 さて、全試合終了後はしばし大社長とプロレス大賞談議。
 
 まずは8・18武道館のメイン(飯伏幸太vsケニー・オメガ)が年間ベストバウトが取れるかどうか。「候補に挙げられるだろうけど、やりすぎという理由で取り逃すのでは…」と伝えると、妙に納得していた。
 
 そして、翌日い府立で行われる森嶋猛vsKENTAを経てのMVP予想に。「今の勢いからすれば新日本に対抗できる団体はないでしょう。となるとオカダ・カズチカですかね」との大社長の意見に対し、「それに対抗できるとなると秋山準じゃないかな? 8月まで3冠ベルトを持っていたし、それにGHCヘビー級が加われば、少なくとも候補には挙がる。あとは選考会でどういう意見が出るか。最近の傾向だと、プレゼンテーションも結果を大きく左右するから。あと、東スポ関係で過半数を占めるでしょ? ということは、東スポ内で意見を統一しておけば、“組織票”で受賞者を決めることもできる。菊池孝さんが亡くなったことで、外部の選考委員は1票減ってるし。オカダvs秋山の決戦になれば、『オカダにはまだこれから(MVPを獲れる)チャンスがあるけど、秋山はこれが最後のチャンス』という意見が出てくるかもしれない」と返しておいた。
 
 さて、どうなることやら…。

【2012.09.17 Monday 01:12】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
誘食

 9月15日(土) 明日、明後日と大阪でDDT、NOAHの興行が行われる、それに合わせて取材、観戦に訪れる方々か「せっかくですから、食事しませんか?」とのお誘いを受ける。
 
 というわけで、ランチ、夕食のスケジューリング。話の仲から、面白い企画が浮かんでくればうれしいが…。

【2012.09.15 Saturday 23:48】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
元駅長語録 猪木編

 9月1日、上井文彦氏が神戸でトークショーを行った。
 
 すでにプロレス業界から離れている上井氏だが、ビッグマウス・ラウドで行動をともにした柴田勝頼が、「G1クライマックス」最終日に桜庭和志を引き連れて新日本プロレスに乗り込んだことで、注目度がアップした。
 
 ところが当日、取材に訪れた記者はほかにおらず。まさに独占。その後、柴田の9・23神戸でのUターン参戦が決定したことで、上井氏の発言は現在の新日プロに対する問題提起ともなった。
 
 というわけで、トークショーにおける上井氏の発言を再録。肝心の柴田に関する発言は週プロモバイルにアップされたので、それ以外の部分を…。
 
 上井氏の言葉の端々には、あの頃の新日プロに対する誇りと愛情があふれていた。

    ◇      ◇      ◇ 
 2004年10月20日付で(新日本プロレスを)辞めましたんで、僕がマッチメークしていたのは2年ぐらいですね。やり始めたのはいつからかは全然覚えてないですね。
 
 もともと僕は営業ですから。マッチメーカーと営業って、全く違うんですよ。営業は勝手なこと言いますから。
 
 長州(力)さんと永島(勝司)さんがマッチメークをやっている頃にマッチメーク委員会っていうのができたのは、ファンの意見をマッチメークに反映してもらおうと思って。それで倍賞(鉄夫)が気を使ってくれて。
 
 あの頃(長州・永島時代)は何やってもお客さんが入ったんです。でも、G1がトーナメントになったりリーグ戦になったりで。事務所の中の人間で意見が違ったり、「ファンが望んでることとちょっと違うんじゃないの?」という意見があったんで、緩衝材にしようということでマッチメーク委員会というのができたわけで。
 
 だから(委員会には各部署の)主任以上が集まってた。宣伝部もいたし、総務もいたし。その人たちが、自分たちがチケットを売ってるお客さんの声を集めて月曜日の(定例)会議に持っていくんです。でも、ほとんど実現しなかった。
 
 プロレスラーが考えるカードと、ファンが求めるカードは違って当たり前だと思う。
 
 長州さんは誰と誰が闘えばいい試合になるかをまず考える。リング上の充実を図る。でも、ファンや僕たちが見たいカードっていうのは、選手がやりたがらないもの。なぜか、やりたがらない。
 
 そこでマッチメーカーに「こういう試合は実現できませんか?」「こういうカードもあるんじゃないですか?」というやんわりとした意見を持っていって。それを聞いてくれたことはあったと思うんですけど、(マッチメーク委員会の意見が)反映されたかどうかはわからない。
 
 でも、そのマッチメーク委員会があったから、全日本プロレスに大量離脱した時(2002年1月、武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンのほかフロントの中心人物も移籍した)に、(新日プロから移った)感性のいいフロントが(全日プロの)マッチメークをやったんです。
 
 僕が大学を卒業して(新日プロに)就職したのが昭和52年(1977年)7月4日付で。そこからのキャリアは営業だけ。そんな中でマッチメーカーに指名されても、やりようがないでしょ?
 
 橋本(真也)選手がZERO−ONEを作った時は危機感はそんなになかったんです。でも、(武藤らが)全日本に移籍したときは、事務所のヘッドクオーターの人間も何人か移って。(個人的に)仲のいい連中ばっかりだったんですけど、武藤と小島が抜けた時は…。
 
 スターには太陽と月の2種類があるんです。光を放ってる方と、その光で輝いている方。たとえば、小島が光を放ってて、その光で天山(広吉)が輝いていた部分があったと思うし、武藤が輝いていたから蝶野(正洋)も輝いてた。その輝いてた方が2人、新日本から出て行ったときには、営業という立場もあって「ヤバイ!」って思いました。
 
 それまでは、新日本の未来は大丈夫だっていう勢いだったんで。そこからスターが抜けて。もう、どうしたらいいのか。「自分の思うようにやっていい」って言われたんで(何とか引き受けた)。
 
 プロレスファンって、全員がマッチメーカーなんです。プロレスファンって、勝敗の予想をして会場に来ると思うんです。それで予期せぬこと、想定外のことが起こったり、サプライズがあって、「やられたよ…」っていう感じになって帰っていく。映画ってそんな感じでしょ? 最後に大どんでん返しがあって感動する。
 
 だからマッチメークは誰でもできる。小学生でもできる。実際、「こういうカードを実現してください」って意見を書いたハガキが来たから。「誰と誰を闘わせれば…」っていうのは誰でもできる。できるけど(それを実現するための)根回しが大変。
 
 闘う人たちは人間ですから。(自分が考えたカードを聞いて)嫌なこともあったと思いますけど、それを引き受けてくれたことには感謝してます。
 
 “土下座外交”って言われましたけど、そう言われてもいいですよ。いろんなカードを実現させましたけど、それはファンの夢うんぬんじゃないですよ。新日本プロレスをいかに元の位置に戻すか。それだけだった。キング・オブ・スポーツのポジションを取り戻したかった。
 
 あの頃、タクシーを呼んで「東京ドームまでお願いします」って言うと、「何があるんですか? K−1ですか?」って言われるんです。昔は絶対、そういうことはなかった。悔しかったですね。まして新日本プロレスですから。とにかく、イニシアチブを取り戻すことしか考えてなかったですね。それが僕の大命題。
 
 マッチメーカーに就任するにあたってパラオに行ったんですけど、実は新日本プロレスにあって、僕は自他共に認める反猪木ですから。
 
 まぁ、若い頃って、変に正義感ぶるでしょ? 猪木さんがやってることって間違ってるって思って。僕はそれをしゃべるから。伝え聞いたことが大きく膨らんで会長(猪木)の耳に入るんですよ。
 
 とにかく(猪木とは)ほとんど話したことなかった。坂口(征二)さんと(山本)小鉄さんとは話すんですけど。
 
 とにかく猪木さんが嫌いのは、坂口さんと小鉄さん。どちらかというと僕は坂口さん、小鉄さん側なんですけど、その坂口さんと小鉄さんが、また仲が悪い。周りからはみんな仲良くやってるように見えるだろうけど、3人が牽制し合ってるからよかったんです。だから坂口さんが社長の時が、一番バランスが取れてた。
 
 パラオで猪木さんと2人きりになって。もう、地獄ですよ(笑い)。もともと「パラオに行け」って倍賞に言われたときに断ったんですから。「勘弁してくれ」って。
 
 新日本の社員って、何かあったときにみんな率先して猪木さんとビンタをもらいに行くんです。もらってないのは僕だけです(苦笑い)。なぜかって言ったら、本気でやられる(殴られる)と思ったから。
 
 東京ドームの試合が終わったらスポーツバーかどこかで打ち上げをするんですけど、音頭を取って乾杯するのが僕なんです。酒飲めないんで。飲まされると大変だから。乾杯しても飲んだふりして捨てるんです。そのうち会長が出てきて、(闘魂注入が)始まるんですけど、始まりそうになったら逃げてましたから。
 
 だから最初、「パラオに行け」って言われたときも断ったんですけど、坂口さんが「オレも行くからよぉ」って言うもんだから仕方なく。「あいさつぐらいはしろよ」って言われて。
 
 で、(パラオに)着いたら、大統領の晩餐会の最中で。そこに行かされて。会長の近くの席に座らされたんだけど、絶対に目を合わさなかった。
 
 とにかく、アントニオ猪木と同じ空間にいて、一緒の空気を吸ってることが苦痛。今はそこまでかわからないけど。
 
 本当は好きだったんですよ。だから新日本プロレスに入ったわけだし。実はすごいトラウマがあって。これ、初めて話すと思うんだけど。
 
 一番初めに(営業で)行かされたのが、「闘魂シリーズ」だったから10月になるのかな、下関だったんです。(後に)UWFで一緒だった吉田さんの下に付いて行かされたわけだけど、とにかく1枚ずつチケットを売って。
 
 そして試合当日、栗栖さんだったと思うけど、「猪木さんにあいさつに行った?」って言われて。「まだあいさつに行ってないのか? 担当なら控室に行ってあいさつして、(チケットが)何枚売れたか報告するんだよ」って言われて。後から聞いたら、そんなことする必要ないんだけど、その頃はまだ何にも知らないから。それで慌てて選手控室に1人で行って。
 
 試合前の控室前ってざわついてるんだけど、猪木さんの控室をノックした瞬間にシーンとして。少しだけドアが開いて、若手が「何ですか?」って。「猪木さんにあいさつに来ました」って伝ると、中に通してもらえて。そして猪木さんの前で直立不動になって、大きな声でチケットが何枚売れたか報告すると、「静かにしなさい」って。
 
 それがまた売れてなくて。確か全部で648枚しか売れてなかった。もともと下関って、興行が難しい所。山口県は徳山以外は難しいんだけど。
 
 その瞬間から(猪木が)苦手になって。次(に担当したの)が長野県の更埴市。ちょうど藤波さんがジュニア王者として凱旋したシリーズ。
 
 その時もまた、売れてなくて。しかも開幕戦だったか、高崎で猪木さんがグレート・マレンコ(ジョー&ディーン・マレンコの父)に葉巻で目を焼かれた時で。それで機嫌が悪かった上に、チケットが売れてないのを報告しないといけないわけでしょ? 僕からすれば一生懸命、営業したけど、結果が出てないわけだから。猪木さんからすれば「またか。こいつダメだ」って感じで。
 
 そもそも長野県って全く知らない土地だし。碓井峠越えたら一面雪景色で。当時まだ、免許取り立てで、雪道の運転なんてそれが初めて。
 
 そういうことがあって、猪木さんの前に出るのがダメになって。それである時、先輩(の営業マン)に「どうやって(猪木に)数字を報告してるんですか?」って尋ねたんです。そしたら「何、それ?」って。「お前、毎回、言ってんの?」ってびっくりされて。「誰もそんなことしてないよ」って。でも、それからもずっと続けましたよ。
 
 そのうち坂口さんに、「上井、しゃべるな。前売りで何枚、当日が何枚、経費がこれだけかかって、これだけ(収益が)残りましたって、紙に書いて渡せ」ってアドバイスしてもらって。
 
 あの当時、選手の控室に営業マンが入るっていうのは、ライオンの檻に入るようなもの。だから(僕が入っていけたのは)別人格が(僕の中に)入ってきたんですよ。
 
 プロレスラーは、控室の中にはお客さんや会社の人には入ってもらいたくないんですよ。大塚(直樹)さんが営業部長をしている頃まで、レスラーと事務所の人間との間には壁があったんです。関わったらいけないっていうか。
 
 猪木さんが嫌いになったっていうんじゃなく、とっつきにくくなったんです。坂口さんは事務所によくいたんで、「オォ、上井、麻雀行く?」って声をかけてきてくれたから。出身が福岡(久留米=坂口)と山口(上井)で近いっていうのもあったんだろうけど。あと、坂口さんは明治大学出身ですけど、徳山の興行をやってたプロモーターが明治大学OBで、僕が興行の手伝いによく行ってたっていうのもあったかもしれない。それで坂口さんには昔からかわいがってもらってて。
 
 新日本プロレスは基本的に、みんないたずら好きなんですよ。あれ(イノキアイランドで猪木と2人きりにされた)は最大のいたずらだと。
 
 夕方には(イノキアイランドから)一緒に帰るぞっていうことだったんです。でも夕方になってみんなが帰り支度を始めると、坂口さんが、「お前、ここに残れ」「猪木さんと一晩一緒にいろ」って。
 
 「夕方から、翌日みんなが迎えに来るまでどうしよう…」って思ったよ。普段だって猪木さんと話したことないのに…。(第1次UWFから)新日本プロレスにで戻って来て、かれこれ20年ぐらいたってたけど、面と向かってどころか、猪木さんの前にすらいったことないのに。
 
 猪木さんの真ん前にいるのは大抵ケロ(田中秀和リングアナ)。周りはみんな、猪木さんが好きな連中ばっかり。俺は絶対、そばに行かなかった。目も合わせない。
 
 2人きりにされて、猪木さんの方から「島を探検しないか?」って声を掛けてきて。逃げるわけにもいかないし、もう何でも「YES、サー」よ。
 
 それで(イノキアイランドの)桟橋のところから、入江のところへ。その入江が真っ暗になるんですよ。何でかって言ったら、カツオに追われたイワシがここに逃げ込んでくるから。(猪木が)「その光景を見せてやりたいけどな…」って。
 
 それからずっと島の裏側の小さな砂浜に行って。4m×3mぐらいの砂浜なんだけど。そこで夕日が沈むのを見ながら、(猪木が)「お前、俺が詩集とか出してるけど見てるか?」って。で、「見たことありません」。アントニオ猪木本はいろいろ出てるけど、読んだことない。
 
 「人間だったら、こういう情景を見たら詩のひとつも書きたくなるだろ。だから俺は、いろいろ詩を書いたりするんだよ」って言うんですよ。2mぐらい前のところに会長が座ってて、目を合わせないようにしてたら、「お前、俺に何かあるのか?」って言ってきて。
 
 マッチメーカーになってからパラオに行ったんだけど、ちょうどその頃、新間(寿)さんの猪木さんへの攻撃がすごくて。出て行った人から猪木さんが攻撃されると、新日本プロレスのイメージが悪くなるばかりで。とにかくOBに黙ってもらおうっていう考えがあった。
 
 その1年ぐらい前から、あとから「体は異なるけど同じ志を持つ者」っていう意味で“異体同心”って名付けたんだけど、ゴングの竹内(宏介)さん、東スポの櫻井(康夫)さん、新間さん、坂口さんの4人で月1回、食事会を開いてたんです。そこに僕がオブザーバーとして入るようになって。僕は新間さんとは(第1次)UWFを一緒にやってたんで(関係が悪くなかった)。
 
 とにかくその頃は、猪木さんの前で新間さんの「し」の字を言うのも禁句。でも、(チャンスは)ここしかないと思って、「聞きづらかったら、即やめますから」って言ってから、「新間さんと仲直りしてもらえませんか」って。
 
 1分あったかどうかわからないけど、しばらく沈黙があって。ウワァ、まずいこと言ったなぁ…って。やっぱり猪木さんとはダメだなぁ…って思ってたら、猪木さんが「仲直り、できないことはないぞ」って言ったんですよ。「ただ、俺から頭を下げることはできないぞ」って。
 
 で、「どうすればいいですか?」って聞いたら、「そうだなぁ、誰かが仲介してくれれば…」って。「たとえば、それは誰ですか?」って聞いたら、「櫻井あたりがいいんじゃないか」って具体的な名前が出て。これで「いける!」と思って。
 
 それが、僕が思ってたアントニオ猪木との垣根が取り払われた瞬間でしたね。でも猪木さんは3分たつと考えが変わるから、「今言ったこと、本当に大丈夫ですか?」「ホントに大丈夫ですか?」って2度、念を押して。
 
 そして、東京に着いたらすぐ(櫻井氏に)連絡を取って。そしたら東スポの1面に記事が出た。
 
 帝国ホテルの地下にある中華レストランで新間さんが先に待ってて。竹内さんもいましたね。猪木さんが入ってきた瞬間の新間さんの涙…。それを見た瞬間、みんなもらい泣きしてました。
 
 新間さんは、アントニオ猪木が恋人なんです。誰にも取られたくない。あれだけ男の人に対して思い込みができるっていうのは、逆にうらやましい。男の涙はいいなぁって思ったね。あの場に遭遇できたことだけはよかったなぁって思います。
 
 今までそういうシーンはほかに、前田(日明)さんと船木(誠勝)さんが和解する瞬間ですかね。残念だったのは、そのフィクサーが僕じゃなかったこと。あれは谷川貞治さんで。その二つの劇的な対面だけは、僕のプロレス人生の中で財産ですね。
 
 あの時、船木さんは白のスーツだったかな。それで現れた瞬間、前田さんは満面の笑みで。握手して、ハグしたかなぁ? とにかく美しいシーンでした。この2人が一緒になったらすごいなぁって思いましたね。
 
 僕もプロレスファンでしたから、バックステージが見れるっていうのは、この仕事をしてる特権ですね。
 
 プロレスファンの中で夢が実現しなかった人って、ものすごく多いと思うんです。僕は新日本プロレスの胸にライオンマークの付いたブレザーが着たくて。たまたま新日本プロレスに入ることができて、「KING OF SPORTS」のブレザーを着ることができたわけだけど、プロレスが好きな人って、みんな関係者になりたいでしょ? そのブレザーを着て、お客さんの前であいさつとか、いろんなことができるっていうのは、誇らしいことなんです。ミーハーなこと言いますけど、自慢できることなんです。
 
 新日本プロレスに入ってもプロレスファンでした。でも大塚さんはすごく厳しい人で、事務所の中でプロレス雑誌を読んでたら、それだけで怒鳴り散らされました。「そんなもの、家に帰ってから読め。事務所ではちゃんと仕事しろ!」って。そういう意味では大塚さんに鍛えられましたね。大塚さんがいなかったら、自分はできてなかったですね。単なる田舎の兄ちゃんで終わってました。全部、大塚さんに教えられましたから。

【2012.09.14 Friday 04:31】 author : 元Fight野郎 | - | comments(4) | trackbacks(0) |
元駅長語録 星野総裁編
 マッチメーカーは本当に大変でした。大変だけど、自分が描いたものが実現すると、こんな快感はないですよ。最初、倍賞に言われたんです。「マッチメーカーは大変な仕事だけど、お前の手のひらにお客さんが乗るんだぞ」「それが転がった瞬間は、たまんないぞ」って。でも最初、その意味がわからなかった。
 
 僕が(新日プロを)辞めたきっかけみたいになってますけど、長州さんが両国国技館に帰ってきた時(2004年10月9日)ね。もう館内総立ちで。あれを見た時、プロレスってこうなんだ…って。最後、辞める時にプロレスの神髄がわかった。
 
 あの時の長州さんって、普段のテンションと絶対違ってたはず。俺の最後の勝負の時だって、出陣する時はもう、エネルギーの塊になって。リングに向かう直前は、心拍数も違ってたはず。
 
 あの時はいろんなことがあった。ライガーが飛び込んで来て。わけわかんなかったですね、あの1日は。でも(マッチメーカーとしては)至福の時でした。その後、最悪の事態になりましたけど(笑い)。
 
 マッチマーカーになって、最初に手がけたのが魔界倶楽部でした。
 
 星野勘太郎さん、総裁には(引退後)ずっとプロモーターをやってもらってたんです。僕は営業だったんで、ホントにかわいがってもらいました。そんな星野さんは、全レスラーからリスペクトされてる。誰も星野さんには、はむかわない。それぐらいケンカが強い。
 
 だから自分がマッチメーカーになるって考えた時、営業部長の時から思ってたんだけど、「何で、星野さんを使わんのやろ?」って。
 
 僕、結構、アメリカンプロレス好きなんで、アメリカンプロレスのマネジャーみたいな存在にって。日本ではあんまりそういうのなくて、若松(市政)さんぐらいしか。でも、マネジャーっていうのは大事だと思う。だから最初、星野さんに「強くて悪いヒールの軍団を作りたいと思ってます。それにはどうしても星野さんが必要なんです。そこで、星野さんにマネジャーになってもらいたい。怒らないでくださいね。マネジャーなんですけど、やってくれませんか?」って。
 
 その時点ではまだ「魔界倶楽部」っていう名前は決まってなかった。ただ、安田(忠夫)がいて、銭ゲバをイメージするマスクをかぶってっていうのは決めてたから、(魔界倶楽部結成が)決まったら、こういうマスクを作ってくれってデザインのイメージは伝えてました。
 
 でも、星野さんが引き受けてくれてなかったら、魔界倶楽部は存在してないです。そこに星野さんがいてくれて初めて、強い軍団が出来上がるんです。
 
 この前、6年ぶりに柴田くんに会って魔界倶楽部誕生の秘話を話したんですけど、その時にわかったことがあって。柴田くんが何で魔界倶楽部に入ったか。
 
 幕張メッセ(2002年11月4日)で本隊vs魔界倶楽部の5vs5決戦があったんだけど、その日、柴田は試合が組まれてなかったんです。ケガで欠場してたのかな? そこで彼にマスクをかぶせてリングサイドに座らせて。「魔界倶楽部はほかにもたくさんメンバーがいる」「どんどん増殖していく」というイメージをつけるために。
 
 その当時、柴田はキックボクシングのジムに練習に行ってたんですよ。それを試したくなったんでしょうね。乱闘の最中に、天山にいいの(蹴り)を入れちゃったんです。そしたら天山がすごく怒って。あんな天山、見たことない。
 
 怒って柴田を投げたんだけど、4mぐらい吹っ飛んだんだから。控室戻ってもブチ切れたままで。
 
 柴田はそのまま魔界倶楽部のバスに乗り込んだけど、やりすぎたって思ったのか、「まずいことしてしまいました」って感じでしょぼんとしてて。そこに星野さんが一言、「柴田、よかったよぉ」「あれでいいのよ」って。
 
 その一言で柴田は勇気百倍。いつの間にか魔界4号になってた。それで長井(満也)くんと組んで、破悧魔王'sに。
 
 本当は柴田くんは魔界倶楽部に入る予定じゃなかったんです。星野さんの「柴田、よかったよぉ」の一言があったから。
 
 柴田くんと話さなかったら全然、思い出さなかった。
 
 でも、天山が怒ったらすっごい怖いですよ。あんなにキレた天山、あとにも先にも見たことない。
 
 あの時は天山のリアルな怒りがストーリーになって、偶然の産物で魔界4号が生まれた。それを見せられたんだから、面白いわけがない。
 
 プロレスってどこでキレるかわからない。だから、何で日ごろ練習するかっていったら、キレた時の対応を身につけておくため。
 
 星野総裁との思い出はいっぱいありますよ。あちこちでしゃべってるから、みんなどこかで聞いた話かもしれないけど。
 
 勘太郎さんは入れ歯なんです。テレビカメラの前で「永田!」といった直後に入れ歯が外れて、何言ってるかわからなくなって。それを編集が「○×△※◆□▲◎◇▼!」って字幕を入れたんです。それがあってから勘太郎さんは試合前必ず、滑舌をよくするために練習するようになったんです。
 
 みんなが「ビッシビシいくからな!」って言うのを期待してるもんだから、何も言わないわけにもいかないでしょ? 
 
 で、その日の対戦相手を確認すると、今日は誰々に言わないといけないって考えて、試合前に練習して。
 
 飯田(長野県)に勤労者体育センターってあるんですけど、そこは控室とトイレが離れてて。
 
 僕がトイレに入ったら、個室の扉がひとつ閉まってたんです。で、用を足していると、いきなり個室の中から「永田!」って。思わず「俺、上井ですけど」って言いそうになりました。で、「永田、ただじゃおかねぇからな!」とかいうのを聞いて、「あぁ、練習してるんかぁ…」って。
 
 しばらく聞いてたら、扉が開いて星野さんが出てきた。僕の顔を見ると恥ずかしそうに、「上井、聞いてたのぉ〜」って言うんです。聞いてたんじゃなくて、聞こえてたんですけどね。
 
 そしたら、「ちょうどよかった。お前、永田ね」って僕を永田に見立てて、「永田、どうのこうの」ってまた練習するんです。で「どう?」って聞いてくるので「最高です。いいですねぇ」って。
 
 別のある日、一緒に新幹線で移動してて。グリーン車に乗ったんですけど、その車両にお客さんは僕と星野さんのほかに老夫婦が1組だけで。だったらJRも離して席を取ればいいのに2人ずつ前後の席で、僕たちが後ろ。並んで座っててもゆっくりできないだろうからと星野さんに気を使って、僕は少し離れた席に移ったんです。
 
 しばらくしたら星野さんが始めたんです。席に座ったまま、「永田!」って。前の席を指差しながら。
 
 前の席に座ってた老夫婦は、何事かってびっくりして。後ろの席から「お前、ただじゃおかねぇからな!」って聞こえてくるもんだから、小さくなって震えてるんですよ。
 
 僕の方がびっくりして。慌てて星野さんのところに飛んでいって、「前に2人、座ってるんですから…」って。そしたら星野さん、バツの悪そうな顔をして「わからなかった…」。
 
 そして僕は、前に座ってた老夫婦に、「すいません。いま、台詞の練習をしてもんで…」って何度も頭を下げて。
 
 本人はいたって大真面目でそんなことするもんだから、おかしくて。
 
 星野さん、強度の糖尿病で。まだ魔界倶楽部を作る前、僕がまだ営業の時ですけど、どっちか忘れましたけど、足が壊疽になって。橋本から「星野さんの足、あのまま放っておいたらまずいよ。星野さん、上井さんの言うことしか聞かないから、上井さんから言って、病院に行かせてよ」って。それで病院に連れて行ったら即入院。
 
 「誰にも言うな」って言われたから、事務所の人間にも言わなかったんだけど、星野さん、「ひょっとしたら、足切断するかもしれない」って、肩を落としてた。で、「上井、毎日(見舞いに)来て」って言うもんだから、毎日通いました。
 
 星野さんといえば、前田さんとケンカした話が有名ですけど、前田さんが何かしたあとの大会はみんな、僕が担当なんです。
 
 豊岡(1986年1月14日)で控室まで追いかけていった次の日が確か、山口県の萩で僕の担当。武藤とやり合って旅館を壊した次の日(同年1月24日)が山口県小野田市でTV生中継だったけど僕の担当。武藤は顔が腫れ上がっちゃって試合できない状態で。
 
 もう、星野さんは誰とでもやる。(豊岡の)現場は見てないけど、アキラ(前田)もやり返したから、星野さんはアキラのことがかわいかったんじゃない? ケンカした者同士、仲がよくなることってあるでしょ?
 
 でもその星野さんにケンカを売った男が1人だけいました。試合でブチ切れて。それを見て、長州さんも俺も人間が信じられなくなったんだから。
 
 何でそうなったかしらないし、長州さんが何でそういうマッチメークをしたかも知らない。でもそれを見て、こいつ、信じられないって。
 
 試合中にブチ切れて、星野さんにガンガンいったらしい。控室に戻ってきても、試合の延長線上でガンガンやり合って。それを見て、長州さんが落ち込んじゃったぐらいだったんだから。
 
 誰かって言ったらライガー。だから(体の)小さいレスラーほど、こっち(ハート)が強いんですよ。
 
 長州さんが両国のリングに上がったときも、永田1人が対応すればよかったんですよ。あの当時、ライガーはブラック(CTU)だったにもかかわらず、リングサイドまで来たんだから。当時、ライガーは本当に長州さんが嫌いだったんです。ライガーが(リングサイドに)やって来て、本当に危なかったんだから。俺、「何でライガーが来るの?」って思ったもん。
 
 たしか試合後のインタビューを受けてる最中、会場の雰囲気がおかしいからって(リングサイドに)戻ってきた。あの時、ひとつ間違ったらやりかねなかったんだから。
 
 それほどの強いものを持ってるから、鈴木みのるとも、向こうのリングに乗り込んで闘ったんです。「自分でよかったら、やりますから」って。だから俺は、ライガーが新日本プロレスの中で一番「KING OF SPORTS」を背負ってると思います。
 
 何かあったら、みんなすぐに臨戦態勢になるんです。何かあったときに対応できる。それがストロングスタイル。僕はそう思いますね。
 
 それには何が一番必要かっていったら精神力。西村(修)にしてもおとなしいように見えるけど、ターゲットがしっかりしてるから、あれだけ長州さんに食らわされても、新弟子時代にあれだけいじめられても耐えてこれたんです。
 
 新日本プロレスのリングに上がっている者っていうのは、みんなそういうところがある。
 
 真壁(刀義)くんにしても、新弟子時代の(佐々木)健介のいびりはすごかった。ヒザをケガしてスクワットできる状態じゃないのにやらせて。できないからって食らわして。もう、辞めさそうとしてるとしか思えない。健介が悪いって言ってるんじゃないですよ。
 
 そういうのを耐えてきて、真壁くんがキングコングでG1を獲って、IWGPも獲って、一世風靡したじゃないですか? その姿を見て、よかったなぁって思いましたよ。
 
 頑張って耐えて。ロスの猪木道場では練習が終わったあと必ず猪木さんの(試合)ビデオを見て、「凄いな、凄いな」って言ってた。あんな研究熱心な選手いない。僕が(新日プロを)辞めてからスポットライトを浴びて、よかったなぁって。
 
 僕は巡業についてましたから、選手のいろんなところを見てました。高山選手は競馬仲間だったからよく話したけど、瀬戸内海をフェリーで渡ってる時に、ものすごく落ち込んでて。「どうしたの?」って言ったら、「長州さんにプロレス辞めろって言われました」って。その時の落ち込み方は半端じゃなかった。
 
 そういうのをみんな乗り越えてきてるんです。食らわされるだけじゃなく、言葉でもダメージを与えられる。特に真壁くんは凄かった。
 
 逆にデビュー前から凄いなと思ったのは藤田(和之)。覚えてるのは、山田町(岩手県)の体育館の前の青空の下で受け身の練習をしてて。それを見た時、こいつはすごいレスラーになるぞって思った。
 
 あと、北九州プリンスホテルのアイスアリーナで試合があったとき、牛乳瓶の底のような分厚いレンズのメガネをかけてランニングしてる人がいて。最初、レスラーだとわからなかった。ホント、サラリーマンみたいな感じで。そんな彼がトップになったんですから。誰かって言うと小島くん。
 
 新日本プロレスって、入門してもなかなか溶け込めないんです。それがある日突然、仲間入りするんです。事務所もそう。新入社員も3カ月ぐらい、口きいてもらえない。
 
 それが広島大会が終わったあとに選手会の集まりがあって。決まって鉄板焼き屋に行くんですけど、そこはケースにワインのミニボトルがたくさん冷やしてあるんですけど、小島選手がそれを開けて飲んでたんです。みんなホロ酔いになってきたところで橋本選手が「オイ、小島。お前、長州さんの物まねするらしいじゃないか。やってみろ」って言い出して。そしたら小島選手が物まねをやり出して。
 
 そこから桂三枝(現文枝)と次々やり出したら受けて。ケースの中にあったワイン全部空けて。それで、「小島は面白いヤツだ」となって、完全に新日本プロレスの一員にとして認められた。
 
 星野さんに関して、もうひとつだけ。
 
 退院の日、迎えに行ったんです。そしたら僕の手を引っ張って病室を出て。星野さんが入院してた部屋は7階か10階か忘れましたけど高いところで。で、僕の手を引いてエレベーターホールの踊り場まで行ったら、「毎日ここ来て、下を見てた」って言うんです。「どうしてですか?」って尋ねたら、「足切るんなら、飛び降りようと思ってた」って。
 
 「足切っても、まだ生きられるじゃないですか」って言ったら、「上井、お前、何言ってんの。ケンカできなくなったら、人生終わりよ」「ケンカが人生で一番面白い」って。
 
 赤坂で星野さんを知らない人はいない。それほどケンカ好き。どこででもやりますから。
 
 あと、こういうことがあった。信じられないと思いますけど。
 
 草加(埼玉県)の健康都市スポーツ体育館でよく試合してましたけど、あそこは星野さんがプロモーターだった。そこでsXwの中継があって、山本小鉄さんがTV解説だったんです。
 
 星野さんがお客さんに用があって、試合中に鉄柵の中に入ってきたんです。リングサイドを横切った方が近いからって。
 
 その時に小鉄さんが若手に、(星野を鉄柵の)外に出せって命じたんです。若手は小鉄さんの命令だから断れなし、ましてやその若手は星野さんのことを知らなくて、連れて出たんです。その若手が誰かは覚えてないけど。
 
 松戸(千葉県)の時も星野さんを連れ出した若手がいて。それは棚橋(弘至)。まだ新弟子時代で。あとから橋本選手が棚橋を食らわしましたけど。
 
 で、若手に連れ出された星野さんが怒って。その標的が小鉄さん。
 
 で、いくとこだったんですよ。入場ゲートの裏で「頭来た」ってつぶやいて。少し動かなかったんだけど、腕にはめてたロレックスの時計はずして、ネクタイを緩めて、上着を脱いで。試合中ですよ。小鉄さん、解説席に座ってるのに。「あ、ケンカする時はこうするんだろうなぁ…」って思ったけど、すぐに「星野さん、絶対にいかんといてください!」って止めました。
 
 止めながら「相手は?」って聞いたら、「小鉄」って。
 
 小鉄さんからすれば、悪気があって若手に命令したわけじゃない。でも、星野さんからすれば許せないこと。そうなったらもう、相手が誰だろうと関係ない。
 
 ヤマハ・ブラザーズですよ。あり得ないでしょ?
 
 小鉄さんと星野さんはリング上では息の合ったタッグパートナーでしたけど、一緒に食事に出かけるところを見たことない。事務所で顔を合わすと、小鉄さんは星野さんは年下でも先に入門した先輩だから「お兄さん」って呼んでたし、星野さんは「小鉄ちゃん」と呼んでて。話はするんだけど、2人からお互いの話題が出たのを聞いたこともない。
 
 そんな関係を知ってたけど、まさか…。あの時の星野さんはものすごく怖かった。小鉄さんからもいろんな武勇伝を聞かされたけど、まさか小鉄さんにいくとは…。星野さんで1冊、本が書けるよ。
 
 六本木だったか新宿だったか、ヤクザ8人相手にケンカして。5分ほどして心配して見に行ったら、8人が全員倒れてたっていう話を聞いたこともあるし。
 
 星野さんにとっては、ケンカが人生のすべてなんです。きっとそうだったと思いますよ。 
【2012.09.14 Friday 04:30】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
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