元Fight野郎

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【2019.08.02 Friday 】 author : スポンサードリンク | - | - | - |
思案

 12月31日(土) 年明け1発目の仕事を進める。レスラーを招へいしてのイベントを持ちかけるも、準備期間が少ないのでこれまで通りでは客が集まるか不安。というわけで、ちょっと趣向を凝らして開催しようとアイデアを持ち寄る。何とか成功させたいが…。

【2011.12.31 Saturday 20:44】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
本大会

 12月30日(金) せっかく東京にいるのだからと、SMASH後楽園ホール大会を除いて帰阪することに。前回、来日した際の試合リポートが掲載されている雑誌をフィンレイに進呈。
 独特の世界を構築しているSMASH。この日は大日本、元IWAジャパン、北都プロレスが参戦。2・19TDCホール大会にはゼロワンから大谷晋二郎、田中将斗、日高郁人、全日本からKENSOが参戦。なんか、ぞろぞろと集まってきた感じ。
 さて、試合のほうだが、セミの女子ハードコアドレスアップファイトは間延びしたものの、全体的にはすっきりした進行。
 前回は「過去最低の入り」だったというが、この日はほとんど空席も見られず。ファンのフィンレイに対する認識が変わったとの印象。そういう意味ではプロモーションに成功したといえる。
 さてそのフィンレイ。相変わらず、ちょっとした仕草でも迫力が伝わってくる。藤原組長との絡みは短時間だったが、それでも見せ場たっぷり。レフェリーを務めた和田京平も、「なんで、あんないい選手をほかの団体は使わなかったの?」「久しぶりにいい外国人レスラーを見た」と絶賛。その言葉を本人に伝えると、一言「Thank you」。
 前回の来日で、黒革のコートのポケットに手を突っ込み、近づいてくるファンににらみを利かし、1m以上近づけずに夜の大阪ミナミを歩く姿は映画のワンシーンのよう。ゴッドファーザーをイメージした。
 そんなフィンレイだけに、前述した言葉を伝えた際に見せた一瞬の笑顔も魅力的。
 それを目に焼きつけて夜の東京を後にした。

【2011.12.31 Saturday 09:41】 author : 元Fight野郎 | - | comments(1) | trackbacks(0) |
奇跡

 12月29日(木) 夕方からチェックマンイベントに出演。何と、定刻5分遅れでスタートしただけでなく、用意していた1000点を超える写真を全て紹介できたというのだから、ある意味、奇跡的なイベントになった。

【2011.12.30 Friday 13:28】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
いざ東京へ
 12月29日(木)  今年もチェックマンイベントにパネラーとして呼んでいただいた。というわけで、ただいま東京に向っている。
 今年は場所を「萬スタジオ」に戻して開催。長い1日になりそう。
【2011.12.29 Thursday 11:28】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
懇親会

 12月26日(月) 馳議員の懇親パーティーに出席。過去には100人い上を招いてのものもあったが、「各テーブルを回って、できるだけ多くの声を直接聞きたい」という本人の希望もあって、今回は40人程度。後援会長がスポーツ選手を支援している関係もあって、東日本大震災の被災地から出席されたセンダイガールズプロレスリングの選手や、先場所で引退された元関脇・玉乃島(現西岩親方)の姿も見受けられた。

 議員が携わって今年成立させた法案や、現在取り組んでいる問題について報告。やはり大きいのは被災地の復興および福島第一原発の放射能問題。各テーブルを回った際にも、それらについて意見を述べて理解を求めていた。

 障害者虐待防止法案を成立させているが、児童虐待防止法を2000年に成立させた議員。とはいえ、司法で対処できるようになったからといって問題が解決したわけではない。たまたま知り合いに過去に虐待を体験された方がおられるので、直接声を届ける手引きを使用とも考えたが、スケジュールの都合がつかなかったのは残念。

 開宴前には控室を訪ねて挨拶。その際、「タイガー・ジェット・シンがよろしくと言ってました」と伝える。昨年、彼の名を冠した公立校が新設されたこと、視察を歓迎していることも伝えると、「ミルトンで?」「公立校って凄いよね」「(文部科学)大臣になったら行こうかな」など笑顔で口にした。

 パーティーを終えた議員は、翌日に備えて奈良に移動。多くの元スポーツ選手やタレントが政界に進出する中で、議員として地道に活動していると感じた次第。その機会を与えていただいた後援会長には感謝。
 
 パーティー終了後は、懇親会の進行役を務めたnaoki氏が経営するバーに移動して打ち上げ。後援会長ほか、西岩親方、里村明衣子、花月両選手もお付き合い。いろいろと今後のことに関しても言葉を交わす。

 

 

 

 

【2011.12.27 Tuesday 10:11】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
招待

 12月26日(月) 馳浩議員の懇親パーティーへのお誘いを受けた。

【2011.12.26 Monday 14:47】 author : 元Fight野郎 | - | comments(2) | trackbacks(0) |
金狼最後の対戦相手

 12月23日(祝) 自宅でのんびり過ごしていると、ふと思ったのが「上田馬之助って最後、IWAジャパンだったよなぁ…。ってことは、彼と一緒の時期もあったはず。新日プらや全日プロに参戦していたころのエピソードは出てくるだろうけど、晩年にインディー団体に参戦したころって、どういう立場だったんだろう? せっかくだから追悼コメントとして、当時のことを話してもらえないかな」と考え、Move On アリーナへ。会場に到着するや、ブラックバファローに「(上田さんと)IWAで一緒だったよね? あとで追悼コメントいただける?」と申し出ると、「はい、いいですよ」。というわけで試合後にコメントをいただいたのが、忘れていた事実が。
 実は馬之助が交通事故に遭った直前の対戦相手が素顔時代のバファローだったとか。しかもシングルでデスマッチ。すっかり記憶になかった真事実。
 ぶっちゃけた話もしてくれたが、上田さんの立場をわきまえてのコメントに仕上げる。詳しくは週プロmobileで。

【2011.12.24 Saturday 18:58】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
弔辞

 12月23日(祝) 上田馬之助の訃報に際し、タイガー・ジェット・シンにメッセージをお願いしたところ、返信が届いた。直前までビジネスで海外に出掛けていてちょうど帰ってきたところだったとか。メディアを通じてお伝えできれば…。

【2011.12.23 Friday 11:52】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
神頼み
 12月22日(木) ゼウスがゲスト出演する番組の収録に立ち会う。来年からプロレスはもちろん、「それ以外でもどんどん露出していきたいのでマネジメントをお願いしたい「と伝えられる。ゼウスの知名度が上がれば、大阪のプロレスシーンに必ずや還元される。本人は○○○進出も頭に描いてるが…。
 どこまでできるかわからないが、個人ルートが生かせるならお手伝いしてあげたい。

 
【2011.12.23 Friday 07:41】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
史上最高の悪役

 12月21日(水) 詳細が伝わってきて、“金狼”上田馬之助の逝去が確定した。今回に限らず、blogやtwitter、facebookなど、個人で発信できる環境が増えてきたことで、未確認の段階でニュースが広がってしまう。マスメディアとしては、時間と死因が判明した段階でニュースとしてリリースするため、どうしても遅れてしまうのは致し方ないところ。
 
 さて、馬之助といえば、日本人を本気で怒らせた史上最高の悪役。
 前髪だけを金色に染めて国際プロレスに逆上陸してきたときは、“売国奴”とまで批判された。シリーズが終わるたびにアメリカ(フロリダ州ペンサコーラ)に戻っていたからまだ被害は少なかったが、ずっと日本に滞在していたらどうなっていたか。逆に日本とアメリカを往復する生活だったからこそ、あそこまで悪役に徹せたのかもしれない。
 最近のファンはUWF勢が新日プロに逆上陸してきて、5対5イリミネーションマッチで新日プロの援軍として前田日明のキックの雨(しかもハイキック)を浴びながら一歩も引かず、最後、場外心中に持ち込んだシーンが強く印象に残っているだろうが、彼のセメントでの強さは折り紙つき。力道山時代、開催をサーキットした際に「関西の牙」なる若手のトーナメント(リーグ戦?)が開催されたが、馬之助が優勝。しかもそのすべてを「逆片腕固め」(いまでいう、ダブルリストロック)で勝ち上がっていった。闘いぶりが地味だっため人気が出なかったが、前座の実力者として周囲の評価は高かった。
 ちなみに、その「関西の牙」の後援が新大阪新聞社(週刊ファイトの発行元)だったので、古いネガに馬之助優勝のシーンが残っていた記憶がある。
 
 96年3月に交通事故に遭って半身不随の重傷を負い、熊本県内の病院でリハビリをしていたときに取材にうかがったことがある。確か、翌97年最終号の週刊ファイトの1面でその模様を取り上げたはず。現役時代のイメージを壊したくないからと、約束の日の前日に髪を染め、金狼として迎えていただいた。壮絶なリハビリに模様を話していただいたが、最初は自殺も考えたという。そのために医者から処方された睡眠薬(錠剤)を飲まずにためていたが、いざ飲もうと思っても自分で口まで運べない。「オレは死ぬことも許されない」と悟って、それからは必死でリハビリに取り組んだ。
 そよ風が当たっても痛みが走る状態で、皮の手袋をはめていた。取材に訪れた際には、恵美子夫人から「やっと自分でペンを持って字が書けるようになったのよ」とその成果を聞かされた。「アメリカにいる息子にもう1度会いたい」との思いを活力にリハビリに励み、その模様は何度かメディアでも取り上げられた。
 とにかくプロレスを憂う気持ちは人一倍強く、静かな口調ながら馬之助ならではの考えを語ってくれたものだ。
 「今の選手は巡業先についてもホテルから出ようとしない。早く到着したなら街中をランニングすればいい。トレーニングにもなるし、走っている姿を見せるだけで宣伝になるんだから」
 
 外国人選手の引き抜き合戦が盛んだ時期、BI両巨頭に提言したのは馬之助だけだった。外国人レスラーはギャラが高騰するものの、日本人選手の待遇は変わらず。
 外国人に金を払いすぎとして、協定を結んで外国人窓口を一本化してギャラ高騰を抑えるべきと持論を展開したものの、それが実現することはなかった。結果、一部の団体を除いてコップの中の嵐にもならない団体が乱立するマット界になってしまった。
 自身もまだら狼として逆上陸して以来、国際→新日プロ→全日プロ→新日プロとメジャー団体を渡り歩いた。ほかの日本人選手が契約違反で提訴されるなか、馬之助は二股をかけることもなく、前の契約を満了してからの“移籍”。そこに契約トラブルはなかった。自身の考えを身を持って示したといえよう。
 
 あのタイガー・ジェット・シンが馬之助には全幅の信頼を寄せていた。ある日、早朝の取材を約束。その前夜、後援者の招待で食事に招かれ、ホテルに戻ってきたのは明け方になろうかという時刻だったという。ゆっくり休む時間もなく、本当なら取材の時間を遅らせてもらってもおかしくない状況。取材する側にしても「シンを怒らせては…」と、そう申し出があれば了解するしかない。しかし馬之助が「約束の時間は守らないといけない」と伝えると、シンは文句ひとつ言わず、それに従い、早朝、時間通りに取材に応じたという。何かにつけシンは「ウエダサンとは心と心でつながっている」と言うのもうなずける。
 週刊プロレスにインタビュー記事が掲載された写真は必死にあの表情をしていたものの、黒髪だったのにショックを受けた。「残された時間は少ないのでは…」と直感。日本全土を震撼させた凶悪コンビを最後に引き合わせたかった。それが実現できなかったのが、返す返すも残念。
 
 クラスに「上田」姓の男子がいると、決まってあだ名が「馬之助」だったほど。それほどに、誰もが知っている存在だった。
 昭和のプロレスラーというより、史上最高の悪役。当時の彼の憎まれ具合を知っているものからすれば、今のヒールは、彼の言葉ではないが「お子様ランチ」でしかない。
 
 合掌。

【2011.12.22 Thursday 00:28】 author : 元Fight野郎 | - | comments(1) | trackbacks(0) |
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