11月29日(月) 星野勘太郎を追悼すべく豊岡市民体育館に向かった。ちょうど全日プロの興行があり、結果的にそれに合わせる形となったが、もともと近いうちに足を運ぶ予定にしていた。というのも、今年1月に「週刊プロレス」誌上で発表させていただいた「プロレス歴史街道 大阪編」の第2弾を編するため。しかし、どうもこのアイデア、新編集長には響かなかったようで。実は大晦日のプロレス・格闘技スーパーショーがことしでちょうど10年を迎える。だから、第1回の「猪木ボンバイエ」(2000年12月31日、大阪ドーム)の仕掛け人を取材するなどの検証をトップに構成しようと思っていたのだが、残念ながらタイミングが合わなくなってしまった。第2弾はよそでというわけにもいかないし、さすがに10年後というわけにもいかないので、このままお蔵入りになりそう。
そんなことはどうでもいい。「神戸出身のはずなのに、なぜ豊岡へ?」と思われる方は多いだろう。「同じ兵庫県とはいえ、的外れも甚だしい」と思われるだろうが、豊岡市民体育館は星野勘太郎史において外すことのできない事件があった場所なのだ。
UWF勢が新日Uターンを果たした直後というから86年の新春シリーズだったはず。同シリーズでは基本的にUWF勢(前田、藤原、木戸、高田、山崎)による猪木への対戦者を決定するリーグ戦が行われていた。5選手による2回戦総当たり制。ということは公式戦は全20試合。各大会1試合の割で行われていたが、第1次UWFは2リーグ制になってからシングルマッチしか組まれなかったこともあって、その流れから新日本でもタッグマッチは組まず。よって当初は、公式戦以外の試合は組まれなかった。
しかし、実験的に新日勢とのタッグマッチ(6人タッグ)も組まれるようになったが、新日勢で対戦に選出されたのは中堅・若手が中心。前田に限らずUWF勢は“危険視”されていたこともあって、トップクラスを当てて壊されては大変と、中堅・若手で様子を見ていたのかもしれない。
そんな中、兵庫県の田舎町で新日勢とUWF勢の6人タッグが組まれた。そのメンバーに前田と星野の名前があった。
当時の星野は中堅レスラー。たまにテレビに登場しても“負け役”的なイメージ。よほどのマニアでない限り、その実力は理解できなかった。
事件は試合中に起こった。星野が前田にケンカを仕掛けた形。「向かい合ったら、いきなり鼻にパンチが飛んできた」とかつて前田が語ってくれたことがあった。
前田と星野といえば身長差20cmほど。リーチが長いわけでない星野とあって、鼻っ柱にパンチを当てるのはよほどタイミングがよくないと不可能。パンチを浴びた前田は新日時代、星野にかわいがられていたこともあって、殴られても「一瞬、何が起こったかわからなった」という。しかし、その後も星野がパンチを放ってきたとあってはやり返さないわけにはいかない。結果、とても観客に見せるような試合にならなかったという。裁定もノーコンテストか何かの不透明決着で、大スポの試合結果を見て、「なんだこれ?」って思ったような記憶がある。
しかも不穏な空気はリング上だけに終わらず、「試合が終わっても星野さんがモップを持って控室に殴り込んできた」という。
そんな場所だけに、「プロレス歴史街道」でぜひ訪ねてみたかったこともあって、この機会に足を運んだわけ。
しかしそんなこと、観客はともかく、取材陣も覚えていない(というか、記憶にない)ようで。会場入りして、興奮していたのは私だけ。そんな姿を見て、総裁は「オイ、なにはしゃいでるんだ?」と笑ってることだろう。
全試合終了後、会場に向かって合掌して、極私的な星野勘太郎追悼とさせていただいた。