元Fight野郎

爆弾小僧

 12月6日(木) 新日プロ山形大会取材。

 
 ダイナマイト・キッドが亡くなったとの報を受け、会場に到着するや、デイビーボーイ・スミス・ジュニアの元へ。各メディアはライバルだった初代タイガーマスクや藤波辰爾のコメントを掲載していたが、タッグパートナーの息子だった彼の言葉を聞きたいと思ったから。顔を合わせた際は笑顔を見せていたスミスだったが、キッドの話題を振ると、しんみりした表情に。

 

 寄せられたコメントで「イギリスのマーティン・ジョーンズから電話があって、キッドサンが亡くなったと知らされた。ちょうどファンと食事をしているときで……。それからいろいろ情報をかき集めて、それが誤報でないとわかったときにはショックで、ぼう然としてしまった。それから何も手につかなくて、試合に臨むだけのコンディションを取り戻すことすら難しかった。キッドサンは多くのレスラーに影響を与えた。入院しているとは聞いていたんだけど、なかなか所在がつかめなくて。よほど体調が悪いんだろうなと思っていた。でも、会えてよかった。その時は映像で見たオールジャパンでのアジアタッグ戦(小橋健太、菊地毅組vsD・キッド、ジョニー・スミス組=1991年4月6日、大阪府立体育会館)の試合のことを話そうとしたんだけど、彼はよくわかってなかったようだった。結局、彼からその試合のことは聞けなかった。だけど、キッドサンの試合の中で俺の一番のお気に入りだってことだけは理解してくれたようだ。帰り際に『お見舞いに来てくれて喜んでた』って看護師から聞かされて、会いに行ってよかったと思ったよ」以外の部分は某メディアで……。

 

 キッドの様々なエピソードは、故ミスター・ヒトから聞かされた。「とにかくアイツのいたずらは命懸けなんだ。ただ、日本人相手には仕掛けてこなかったね」。その中からいくつかを紹介。

 
 カルガリー地区をマイクロバスで巡業している際、ドライバーに「これは眠気が襲ってこない薬だ」と言って睡眠薬を与えた。それを信じて服用したドライバーだが、当然、眠気が襲ってくる。ちょうどハイウエーを走行中に眠気に耐えられなくなり、ハンドルを握ったまま気を失った。ジム・ナイドハートが運転席から引っ張り出して事故にはならずに済んだ。

 

 キース・ハートに「ステロイドを射ってやる」と言って牛乳を注射。キースは1週間、40度近い高熱にうなされたという。

 

 また欧州遠征時には、ホームメードのケーキを手に会場入りしてふるまった。しかし、ヒトには「絶対に食べるなよ」と耳打ちしたというのも、現地で付き合っていた女性の赤ちゃんの便を練り込んで焼いたものだという。プロモーター(アクセル・データー)が気に食わないということで実行した悪戯。ちなみにアクセル・デイターはほかのレスラー、特にアメリカ、カナダからからの遠征組からも嫌われていた。

 

 ただ、日本人を悪戯のターゲットにすることはなかったという。

 

 キッドと言えば、全日プロへの電撃移籍は衝撃的だった。実は、新日本プロレス興行(のちのジャパン・プロレス)が全日プロと提携した手土産として引き抜いたもの。大塚直樹氏から連絡を受けたヒトはすぐにカルガリー空港に走り、、新日プロ参戦のため日本に向けて出発する寸前にキッドとデイビーボーイ・スミスをキャッチ。「ニュージャパンには行くな。ババのところへ行くことになってるから」と伝えたという。それを聞いたキッドは理由を聞くこともなく「わかった。ヒトが言うなら」と一言、手にしていた航空券とビザを破り捨てた。それだけヒトを信頼していた。

 

 ケガもあってカルガリーを離れる際に、前妻と離婚。その際も、全財産を与えて無一文でイギリスに帰った。

 

 「悪戯でも生き方でも、あいつはとにかくやることが極端」というのがヒトのキッド評。だからこそ、競争馬用のステロイドにまで手を出したのではないかと思われる。

 

 ステロイドを使用した後の筋肉隆々の姿ばかりが印象的だが、カナダに渡る前のキッドは細身で柔軟な体つき。ザック・セイバー・ジュニアをふた回りほど小さくしたような体形で、スピードとダイナミックかつアクロバットな動きで人気を博していた。ひねりを加えた空中殺法やキックこそ使わなかったが、初代タイガーマスクと同タイプ。だからこそ、あそこまでのライバル関係になったのだろう。
 

 78年4月にカナダ・カルガリーに渡って定着。国際プロレスに初来日を果たしたが、直後に新日プロとの争奪戦が展開されたほどの逸材だった。代名詞でもあるダイビング・ヘッドバットはその飛行距離もさることながら、現在主流となっている肩口を狙うのではなく、ダウンした相手の頭部を狙って放っていった。それだけに、時折、自身の額を割ることも。

 

 キッドの後を追って、デイビーボーイ・スミス、ジョニー・スミスが英国からカルガリーへ。ブレット・ハート、ジム・ナイドハートを加えたカルガリー一派が80年代後半から90年代の日本マット、米マットの中心に。その意味では、世界制圧の足掛かりとなったのはキッドだといっていいだろう。それが前述したスミスJr.の「キッドサンは多くのレスラーに影響を与えた」の言葉につながる。そのスミスJr.は、キッド死亡の方を受けた次の試合から、スタンド式ヘッドバット、トップロープからの雪崩式ブレーンバスターなど、キッドの得意技を使っている。
 

 日本でもそうだが、米東海岸でもセンセーションを巻き起こした初代タイガー。それは日本同様、北米初上陸となったMSGでの対戦相手がキッドだったことも大きな理由だ。
 

 カナダに渡った“英国の麒麟児”は、切れ味鋭いレスリングテクニックと“魔法の薬”による筋肉美で、文字通りリングを駆け抜けた。
 

 R.I.P……

【2018.12.07 Friday 04:03】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
秘宝捜索

 9月28日(金) 某編集者から突然の連絡。トーク番組に出演することが決まったので、テーマに沿ったエピソードを仕入れているとのこと。それも、これまでにあまり出ていない“秘話”か“小ネタ”でとのリクエスト。

 

 いくつか知っているネタを伝える。TVとあって、番組内で写真も使えるというので、本邦初公開となる(とういうか、こちらから某誌に持ち込んだものの適当にあしらわれた)秘蔵写真を提供する旨を伝える。「ぜひとも!」との返事をいただいたものの、その1枚はどこにあるのか……。なにせ4年半ほど前に撮影したとあって、現在使用しているPCには保存されていない。ディスクに記録したはずだが、それもどこに収納しておいたか……。

 

 “お宝発掘作業”に勤しむ。

【2018.09.29 Saturday 01:01】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
照準

 8月21日(火) 全日プロ都島大会へ。

 

 会場入りして、ヨシ・タツ選手と雑談。いろいろとショックを受けているようで。最後は「考えてみたら、1番よくしてくれたのは○○だったんですよね。もう1回、狙います」とのこと。

 

 全試合終了後にはゼウス選手と立ち話。「26日の石川修司戦で3冠戦の歴史に残るような試合をしてもう1回、(週刊プロレスの)表紙を狙います」と笑顔で語ってくれた。王座戴冠劇を演じた際に初の表紙をゲット。しかし、「買えなかったっていう友達が多くて……」。次は増配してくれるかな?

【2018.08.22 Wednesday 00:32】 author : 元Fight野郎 | - | comments(1) | trackbacks(0) |
堕 五輪星

 

 

 7月16日(月・祝) マサ・サイトーが亡くなられたとの情報が、健介オフィスから流された。パーキンソン病と闘っていたが容体が急変し、14日未明に旅立たれたとのこと。75歳。

 
 インターネットを含む各メディアではアントニオ猪木との巌流島での一戦がハイライトとして紹介されているが、一匹狼として米マットで生き抜いてきたことこそ評価されるべき。そういえば『週刊ファイト』(notネット版)では一貫して「マサ・サイトー」「Mr.サイトー」と表記されてきたのはその表れともいえよう。

 
 東京五輪(1964年)レスリング日本代表の肩書を引っ提げてプのプロ転向。東京プロレス旗揚げ前の公開練習では、新兵器としてアントニオドライバーの写真が大きく掲載されていたが、撮影用以外でアントニオ猪木のスパーリングパートナーを務めていたのはサイトー。実力者であるサイトーを相手に指名したのは、アメリカ仕込みのグラウンドテクニックが“本物”であることを暗にアピールする狙いがあった。

 
 東京プロレスが活動停止となり、所属選手は日本プロレスと国際プロレスに身を預ける中、サイトーはアメリカに飛び立つ。訴訟合戦にまで発展したリング外のゴタゴタに嫌気が差したのと、実力で勝負してやるとの決意から動いたもの。そして米マットではNWA、AWA、WWF(当時)と三大団体で活躍した。いや、日本マットも含めれば世界四大団体で活躍したといってもいい。

 

 AWAではニューヨークで大スターになる前のハルク・ホーガンと抗争を展開。当時のホーガンは新日マットと往復しながらベビーフェースで売り出されていたが、まだまだ試合運びには何があった。連日闘いながら、トップスターとしての闘い方を教えていたのがサイトーだった。いうなれば実戦コーチ。猪木のパートナーとして闘い方を盗んで成長していったといわれるホーガンだが、対戦相手として彼を成長させたのはサイトーだった。

 
 サイトーの実力はレスラー仲間はもちろん、プロモーター、ブッカーからは信頼されるほど。日本でいうところの道場破り、腕自慢の挑戦者が現れると、サイトーが相手役に指名されたのはその表れ。無敗だったのはいうまでもなく、言い訳ができないほどケチョンケチョンにやっつけたという。「本気で怒らせたら何をするかわからない」とレスラー仲間であっても震え上がるほど。レスリングだけでなく、ケンカでも滅法強かった。

 
 そんなサイトーと大ゲンカしたのがミスター・ヒト。サイトーが国際プロレスに参戦していたときの後楽園ホール大会での控室での出来事だ。

 

 マッチメーク(アニマル浜口との一騎打ち)に不満をぶつけたサイトーは、「こんな試合やってられない」とボイコットも辞さない構えだった。その姿を見て怒ったのが、同時期にフリーとして参戦していたミスター・ヒト。「あんた、新日本から派遣されて来たのかもしれんけどね、誰がギャラを払ってると思ってんだ?」と言うなり、つかみ合いのケンカを始めた。渋々、当初発表されていた通りのカードをこなしたサイトーだったが、試合に不満をぶつける形となり、結果はサイトーの反則負け。控室での大ゲンカの場所に居合わせた上田馬之助は、「あのサイトーにケンカを売るなんて、安達(ミスター・ヒト)もすごいよなあ……」と漏らしていたという。

 
 2011年1月、ロスで開催された「レッスル・リユニオン5」に招へいされたサイトー。イベント内で開催されたPWGの大会では「レジェンドバトルロイヤル」のゲストとしてハーリー・レイス、アイアン・シーク、ビル・アプター記者とともに紹介された。リングに向かう足取りもしっかりしており、リングインするやロープワークと空手のパフォーマンスを披露。コンベンションではファンとの撮影やサインに応じていた。

 
 WWF世界タッグを獲得した際のパートナーであるミスター・フジ、ウィスコンシン州の刑務所に収監された事件のきっかけを作ったケン・パテラとも再会。サイトーの米マットでの歴史を凝縮したイベントだったが、中でもリング上でのスペシャル撮影会では小道具としてマクドナルドのエプロンとテイクアウト用の袋、レンガが用意され、希望者はそれを手にサイトー、パテラとのスリーショットが撮れるというのだから驚いた(深夜、マクドナルドの店舗に買い出しに行ったパテラだったが、閉店時間で対応してくれなかったことに腹を立ててレンガの投げ入れ、ガラスを破損。そのままホテルに戻ったところ、通報を受けた警官が踏み込んで来て乱闘になったというのが事件の発端。事件を知らないサイトーがドアを開けたところ、いきなり催涙スプレーを噴射され、取り押さえようとした警官を次々と投げ捨てたのが暴行事件の顛末。それにしても、目が見えない状態で20人とも伝えられる警官を返り討ちにしたのだから、その強さは相当なもの。ただ、1人が足を骨折したことで実刑となったが、よく警官が発砲しなかったものだ)。

 
 とにかく、エピソードには事欠かない。もう、サイトーのような破天荒なレスラーは出てこないだろう。

 

 R.I.P。

 

【2018.07.17 Tuesday 16:59】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
一路九州

 7月7日(土) 始発から山陽新幹線は運転を見合わせている。運転再開の見込みは「早くても15:00」との情報。18:00までに現地入りしないといけないので、それまで待っていられない。

 
 相変わらず、福岡行きの便へ全便満席。長崎や鹿児島行きの便には多少空席があるものの、到着してからの足が確保されるかどうかは微妙。いったん東京に出てから福岡に向かうしかないか……と検索していたところ、松山経由なら17:30に福岡空港到着できるルートが出てきた。定刻通りに運行されるかどうか微妙だが、その時点ではこれが最善策。1席だけ空席もあるという。とりあえず予約を入れる。ただ、当日なので正規運賃。新幹線の3倍以上になるが、仕方ない。

 

 急いで大阪空港へ向かうと、早速「遅延」の表示。それでも松山空港での乗り継ぎには間に合いそう。迷ってしても仕方ないので、「行けばわかるさ」状態で航空券を購入。なんとか1時間遅れで出発。

 

 松山空港での乗り継ぎ時間は20分。いったん到着ゲートに出て、再びセキュリティーチェックを受けなければならないとのこと。保安検査場に急いで向かい、なんとか10分前には搭乗ゲートにたどり着いた。すると「使用機材の到着遅れで、出発が45分遅れます」のアナウンス。となると、18:00までに現場到着は不可能。といっても引き返すわけにはいかない。先方に連絡を入れて、使用機材の到着を待つ。

 
 結果、40分遅れで出発。18:20ごろに福岡空港に着陸。手荷物を引き取り、その足で会場に急行。なんとか1時間遅れで飛び込み、すぐに取材の準備をしてリングサイドへ。ちょうどアンドレザ・ジャイアントパンダがリングインしたところだった。

 

 前日の夜に陸路で博多に向かったビリーケン・キッドは、時間までに会場に到着することはできず。仕方なく欠場に。タッグ王座に挑戦する三原一晃は、知人が予約していた航空券を振り替えてもらって福岡入り。試合に穴をあけずに済んだという。

 

 全試合終了後、あらためて挨拶を交わした関係者からは、「よく来れましたね」と声をかけられた。10年目にして初の福岡国際センター進出。やはり豪雨の影響で観客動員は苦戦したものの、会場は地域に愛されていることが肌で感じられる素晴らしい雰囲気に包まれていた。

【2018.07.08 Sunday 03:28】 author : 元Fight野郎 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
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